当社の摂社には星宮神社(ほしのみやじんじゃ)というお宮がございますが、そこには文章学社(もんじょうがくしゃ)というお社が配されています。
文章学社の祭神は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)です。
菟道稚郎子は、応神天皇の皇子です。『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』では「宇遅能和紀郎子」、『山城国風土記』では「宇治若郎子」、『播磨国風土記』では「宇治天皇」と様々に表記されます。
母親は、日触使主(ひふれのおみ)の娘で宮主宅媛(みやぬしやかひめ)という女性です。
菟道稚郎子は、父である応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられましたが異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位を譲るために自害してしまいます。
菟道稚郎子は、朝鮮半島から来朝した阿直岐(あちき)や王仁(わに)を師として多くの典籍を学んで通達しました。阿直岐は経書や典籍に博学で、王仁はその阿直岐が推挙した博士です。
このように典籍に通じていた菟道稚郎子だからこそ、応神天皇28年の高麗からの上表文に「高麗の王、日本国に教ふ」という非礼な文言があるのを見つけ、その使者を責過することが出来たのでしょう。
菟道稚郎子は、応神天皇40年1月に皇太子となりました。
その翌年に天皇が崩じましたが、菟道稚郎子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合いました。
そのような中、異母兄の大山守命 (おおやまもりのみこと)は自らが皇太子になれなかったことを恨み、菟道稚郎子を殺そうと挙兵します。
大鷦鷯尊はこれを察知して菟道稚郎子に知らせ、大山守皇子は菟道稚郎子の策略で殺されました。
この後、菟道稚郎子は菟道宮に住み、大鷦鷯尊と皇位を3年にわたって譲り合いました。
そして、永い天皇の空位が天下の煩いになると思い悩んだ菟道稚郎子は自害して果てたのです。
大鷦鷯尊は驚いて難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の法を行なったところ、菟道稚郎子は蘇生し、同母妹の八田皇女(やたのひめみこ)をたてまつる旨の遺言をして、再び薨じました。
亡骸は菟道山上に葬られました。『陵墓要覧』はその所在地を京都府宇治市菟道丸山としています。
菟道稚郎子が学業成就の神様としてお祀りされておりますのは、経書・典籍に博く通じていた皇子であったということと、天皇位を優秀な兄に譲るために自ら果てたという、その行為によって神様として崇拝されるようになったと考えられます。
菟道宮は京都府宇治市の宇治上神社が伝承地ですので、機会があればどうぞご参拝下さい。